アレナ・メヒコ・タッグ王座チャンピオンベルト


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アレナ・メヒコ・タッグ チャンピオンベルト。
1964〜73年に実際にリング使用された物です。
40年以上に渡り、最後のチャンピオンチームの1人である『エル・アルコン』選手が所有しておられたベルトです。

■SIZE: 全長107cm / 高さ22cm
■メキシコ:マノエル・サバラ製


型番 CBLT_02
販売価格 500,000円(+ TAX)
※12月16日(水)PM12:00より販売開始

アレナ・メヒコ・タッグ王座

解説:ドクトル・ルチャ



メキシコという国にルチャ・リブレが誕生して82年になるが、創設から半世紀の間、メジャーなタッグタイトルは存在しなかった。シングルのNWA世界王座、シングルのナショナル王座こそがこの国のプロレスの根幹を成すタイトルであって、タッグマッチ自体が「余興」、あるいは一騎打ち(シングルの選手権)に至る伏線としか見られていなかったからである。歴史上、初めてのメジャーなタッグ王座は1982年6月に新設されたナショナル・タッグ・タイトル(初代王者はリンゴ&カチョーロのメンドーサ兄弟)。その後、UWA、WWA、CMLLといった世界タッグ王座が乱立するが、それらは30年しか歴史がないのだ。

それ以前の存在したタッグ王座といえばいずれもローカルタイトルで、グアダラハラを中心とした西部地区タッグ、モンテレイを中心とした北部地区タッグなどは有名な方で、他にはメキシコ州タッグ、メキシコ連邦区タッグなど州単位や地域性のあるものや、アレナ・ナウカルパン・タッグやアレナ・ロペス・マテオス・タッグなど、会場限定のタッグ王座が各所に存在した。

そんな中で最も価値のあるのが“カンペオナート・パレハス・デ・アレナ・メヒコ”、つまり「アレナ・メヒコ・タッグ選手権」である(一部ではこれをナショナル・タッグ王座と呼んでいるが、それは明らかに誤り)。“ルチャ・リブレの聖地”と呼ばれるアレナ・メヒコは1956年4月に開場した。メキシコのプロレスはこの巨大アリーナでの興行を核に半世紀以上回っている。

ここでの金曜日の定期戦では年に数回のワンナイト・タッグ・トーナメントが開催されてきた。開場翌年の1957年6月に「アレナ・メヒコ杯」として2週間にわたって行われた大規模なトーナメントで、最初の優勝チームがブラック・シャドー&ブルー・デモン。彼らに与えられたのは優勝トロフィーであった。事実、アメリカでも60年代半ばまでタッグ王者にはチャンピオンベルトはなく、1本のトロフィーが王者チームであることの証だったのだ。日本でも最古のタッグ王座であるアジア・タッグ選手権は1966年末までトロフィーが使用されていた。

エスパント1号&2号、レネ・グアハルド&カルロフ・ラガルデらがその優勝トロフィーの獲得者だったが、それが初めてチャンピオンベルトになったのが1964年。日本より2年早い。しかし、このタッグ王座はベルトを巡って王者チームと挑戦者チームが奪い合う通常のものとは性格が違う。設立当初のIWGPヘビー級王座のように、毎年行われるトーナメントの優勝賞品として1年間のチャンピオンベルト保持が認められるというものあった。

1964年は10月9日から始まったトーナメントにはエル・ナシ&エル・グラディアドールのルードチーム、レランパゴ・クバーノ&ドレル・ディクソンのカリビアンコンビ、前年優勝のレネ・グアハルド&カルロフ・ラガルデのロス・レベルデス、ベニー・ギャラン&ロジャー・キルビーの欧州チーム、ハム・リー&ルーベン・フアレスの正統派コンビら8チームが参加。翌週16日の決勝戦でエル・サント&ラヨ・デ・ハリスコがエスパント1号&2号を破って優勝し、初めてこのベルトを手にした(時期的に言えば日本で東京五輪が開催されている最中の出来事である)。

ベルトは数々の名作を世に残してきた“名工”マヌエル・サバラ氏の作品。実はこのベルト、EMLL(エンプレッサ・メヒカーナ・デ・ルチャ・リブレ)がセントルイスのNWA本部のために1958年にサバラに製作を依頼したNWA世界ヘビー級ベルトの鋳型を再利用したもの。ちなみにこの世界ヘビー級ベルトはパット・オコーナー、バディ・ロジャース、ルー・テーズ、ドリー・ファンク・ジュニア、ハーリー・レイスまで名王者によって15年間使用された名作中の名作である。そのヘビー級ベルトのプレートには「NWA」の浮き彫りと地球が中心にあったが、このアレナ・メヒコ・タッグのベルトはメキシコの地図がデザインされている。このデザインは1967年8月にレイ・メンドーサによって復活したNWA世界ライトヘビー級ベルトにも再利用された(同ベルトは1975年3月まで使用された)。つまり最盛期のNWAの由緒あるデザインというわけ。

さて、このアレナ・メヒコ・タッグはというと、1965年の同王座のトーナメント開催はなかった。それはミル・マスカラスのデビュー戦と重なったためだろうか。7月16日のワンナイトトーナメントに、もしこのタイトルがかかっていたならば優勝したマスカラス&ブラック・シャドーがベルトを締めていたはずである。

1966年4月22日ではサント&ラヨがロス・レベルデスを決勝で破って2度目の制覇。さらにこの年は9月30日にはミル・マスカラス&ブラック・シャドーがサント&ラヨの持つベルトにアタックするという究極のアイドル対決が行われた。それはマスカラスがサントやラヨと唯一対決した試合である。結果、サント&ラヨが勝利し、形式的に防衛したことになる。

次は1967年3月3日からの3週にわたってのトーナメント。ここではメンドーサ&ラヨ、ロス・レベルデス、ブラック・シャドー&ビック・アメスクア、ラウル・レイジェス&ドレル・ディクソン、アントニオ・モントロ&ベント・カスティージャのスペインチームら8チームが参加し、同月17日の決勝戦ではミル・マスカラス&ハム・リーを破ったアンヘル・ブランコ&ドクトル・ワグナーのラ・オラ・ブランカ(白い津波)が優勝して、このベルトを獲得。マスカラスには届きそうで届かないベルトだった。

1967年12月22日には異例の防衛戦が行われる。現王者アンヘル・ブランコ&ドクトル・ワグナーが2連覇の実績のある元王者サント&ラヨを破って世代交代をアピールしたのだ。その翌年1968年のアニベルサリオ(9月20日)ではサント&メンドーサのアイドルチームがラ・オラ・ブランカを破ってベルトを獲得。サントはこれで3度、このベルトを獲得したことになる。

ところがこのタイトルは以後、忽然とアレナ・メヒコの表舞台から姿を消す。1969年〜1972年の記録のアレナ・メヒコの記録にこの選手権は現れない。もし、トーナメントが開催されていたとしたらエル・ソリタリオ&アンヘル・ブランコが連破していたに違いない。このチームは当時、無敵を誇り、サント、デモン、メンドーサ、マスカラス、ラヨらがどう組んでも彼らには全く歯が立たなかったからである。

ベルトが復活するのは1973年10月。前年末に仲間割れ後にアンヘル・ブランコのマスクを剥いだソリタリオがテクニコに転向して選んだ最初のパートナーが新星エル・アルコンだった。このドリームチームで10月12日から3週にわたるトーナメントに参加した。トーナメントには反逆児ロス・レベルデス、レイ・メンドーサ&リンゴ・メンドーサの新旧インディオコンビ、アンヘル・ブランコ&グラン・マルクスの新・白い津波、デモン&アニバルの青い新旧アイドルコンビ、アルフォンソ・ダンテス&ナシの重戦車チーム、ラウル・マタ&エンリケ・ベラの大型テクニコチームら強豪チームが参加。19日の準決勝で強豪のレベルデスを破ったソリタリオ&アルコンは26日の決勝でキム・スン・ホー&キム・チュル・ウォンの韓国チームと対戦。これを撃破したソリタリオ&アルコンが、73年に「最後のチャンピオンチーム」となったのである。

以後、このベルトは封印され、二度と陽が当たることはなかった。60年代というルチャ・リブレ黄金期に誕生した唯一無二の「準メジャータイトル」…アレナ・メヒコ・タッグ王座。ルチャの殿堂でのみ争われたこのベルトは、スーパーが付くエストレージャだけしか腰に締めていない。また、ここまで記述のように、防衛戦を繰り返し、旅に付いて回る他のチャンピオンベルトたちと違って数えられるほどの舞台でしか使用されなかったためにダメージが極めて少なく、その後の保存状態も良好だったようだ。42年間、盗掘を免れ、外界の空気に触れて酸化することなく、今日に姿を現した…これぞメキシコプロレス界の至宝といえよう。